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メトロヴィック F.2 (Metrovick F.2) は、イギリスで初めて飛行に成功した軸流式ターボジェットエンジン。1939年よりメトロポリタン=ヴィッカース (Metropolitan-Vickers) 社で鋭意研究開発が進められたが、第二次世界大戦中には完成を見ず、戦後アームストロング・シドレー サファイア (Armstrong Siddeley Sapphire) の母体になった。 == 前史 == 1926年にイギリス空軍技術将校のアラン・アーノルド・グリフィス (Alan Arnold Griffith) は、『タービンの空力的設計』(''An Aerodynamic Theory of Turbine Design'') と題した学会発表の中で、従来の軸流式圧縮機に用いられていた羽子板状の直線翼の失速(サージング)現象を解明し、圧縮機とタービンのブレードに航空機の翼型を適用して効率向上させることで、ターボプロップエンジンが航空機の推進力として成立しうることを示した。 この発表は世界的に大きな反響を呼び、グリフィス以下ヘイン・コンスタント (Hayne Constant) ら王立航空研究所 (Royal Aircraft Establishment) のメンバーは、1928年にフレーザー・シャルマーズ社 (Fraser and Chalmers) に特注した工作機械を用い、アン (Anne)、ルース (Ruth)、続いてベティ (Betty) と名付けた検証モデルを試作して稼動させた。 一方、航空士官学校からケンブリッジ大学に派遣されていたグリフィスの弟子の下士官フランク・ホイットル (Frank Whittle) は、構造が単純な遠心式ターボジェットエンジンこそが早期の実用化に適すると主張する論文を1929年に軍需省に上申したが、これを精査したグリフィスは計算間違いを指摘し、遠心式は大径かつ非能率で、航空機推進用には適さないとコメントした。翌年ホイットルは遠心式ターボジェットエンジンを特許出願し認められたものの、軍需省の支持が得られなかったため十分な研究予算が付かず、特許は更新料未納のまま1935年に失効してしまう。 グリフィスに敵愾心を抱いたホイットルは、空軍実験隊に籍を置きつつ、1936年に蒸気タービン大手ブリティッシュ・トムソン・ヒューストン (British Thomson-Houston, BTH) 社工場の一角に、同僚2人とパワージェッツ社を立ち上げて遠心式ターボジェットエンジンの実証に没頭。翌年初号機 WU (Whittle Unit) の試運転に成功した。 ホイットル着手の報を受け、複雑な二重反転軸流式ターボプロップエンジンを目論んでいたグリフィスは、別のタービン機関大手メトロポリタン=ヴィッカース(メトロヴィック)社に試作を下命した。程なく BTH はメトロヴィックに吸収合併され、両者は社内競作の形になる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メトロヴィック F.2」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Metropolitan-Vickers F.2 」があります。 スポンサード リンク
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